アメリカ形成外科学会名誉会員
細川藤孝・明智光秀の子孫
細川 亙(ほそかわ こう)
今年は「麒麟がくる」というのが大河ドラマで始まりまして、明智光秀がブレイクしつつありますのでこのような演題にさせていただきました。
細川と明智はどのような関係があるかと申しますと、細川忠興という戦国武将のところに明智光秀の3女(一説には2女といわれます)である玉が嫁に来たという親戚関係があるのです。
私は、細川忠興と細川ガラシャの間に生まれた長男、忠隆の系統になります。総理大臣だった細川護熙さんは三男、忠利の系統になります。「元総理大臣の細川護熙さんとは親戚ですか?」とよく聞かれますが、その時には「400年前に分かれました。」と言うようにしております。
臣籍降下と清和源氏
細川の姓についてお話します。清和天皇の孫の経基王が臣籍降下(賜姓降下)して源を名乗るようになりました。天皇や皇族は苗字を持ちません。皇族も皆が皇族のままだとどんどん増えていきますので、臣下に変わるということをたまにするわけです。その時に名字をもらうのです。かなり昔はいろいろな名前をもらっていたのですが、平安時代のころから源(みなもと)あるいは平(たいら)という名前をもらうことが多くなりました。従いまして、源という名前は清和だけではありません。源の名前をもらって臣籍降下したのは二十いくつあります。一方、平の方は、四人の天皇から臣籍降下しています。経基王が臣籍降下してその玄孫の義家(八幡太郎)が平安時代の新興武士勢力の象徴的存在になり、武家として源氏の名を轟かせます。その義家の玄孫が源頼朝になります。
そして源義家の孫の義康が栃木県足利荘(現足利市)に領地を持ち足利を名乗るようになります。源氏なのですが、その中の足利氏ということになります。その中から室町幕府を開く足利尊氏が出てきます。
細川氏の起こり
足利を名乗った義康の曽孫、義季が愛知県の細川郷(現岡崎市)に領地を持ち細川姓を名乗ります。その後、足利尊氏が室町幕府を開く際に細川一族が大きな武勲を挙げます。その結果、室町時代になりますと細川一族は各地の守護大名職や幕府の管領職などに任命されるようになります。管領職というのは将軍の次の位で、三管領といいまして細川、斯波、畠山の3家が交代で管領を務めました。しかし、応仁の乱の東軍総帥を務めた細川勝元などを輩出した管領家(京兆家)細川氏も室町時代末期になると足利幕府と共に衰退してゆきます。
和泉細川家の繁栄
管領の細川家には支流がたくさんあって、代わって台頭してきたのが和泉上守護家を務めていた細川家です。この和泉細川家が細川藤孝を輩出し近世細川氏として、繁栄することになります。江戸時代に熊本の細川家になるのもこの和泉細川家です。私もこの系統になります。
私の家は細川内膳家というのですが、昭和の初めに破産しまして、家も土地もなくし、墓までなくしてしまいました。その後墓だけは買い戻しましたが、そのような中で現在、細川ガラシャにつながるものとして唯一持っておりますのが、ガラシャが輿入れの際に持ってきた桔梗旗(明智家家紋)です。
明智玉姫輿入(天正6年8月青龍寺城)荷物中の桔梗旗:細川内膳家所蔵
明智光秀は土岐氏の一族
一方、ガラシャの父親の明智光秀については、生年不詳で美濃国明智城主明智光綱を父とする土岐氏の一族考えられていますが、前半生についてははっきりと分かっていません。本能寺の変の後、多くの親族が殺されていますし、生き残った人も明智光秀との関係を隠すということもあったと思います。謀反人になった段階で、明智光秀がどのような人だったかというような資料はなくなってしまったのではないかと思います。
明智光秀は美濃守護代齋藤道三に仕えましたが、道三が子供の義龍に殺されてからは、越前の朝倉義景の家臣となり、織田信長の力を借りながら義景のところにいた足利義昭を盛り立てて将軍にします。光秀は一時的には朝倉義景と織田信長の両方の家臣となっていますが、結局は信長のもとで異例の出世を遂げます。丹波の平定や浅井長政との戦いにも活躍し信長の信頼を得て出世します。しかも、従妹といわれる帰蝶(濃姫)は道三の娘でかつ信長の正室であり、光秀の妹は信長の甥信澄に嫁いでいます。光秀と信長とは姻戚関係にもありました。
明智玉(細川ガラシャ)の誕生
明智玉は1563年に明智光秀の3女として生まれ、信長の媒酌で同い年の16歳の細川忠興に嫁いでいます。忠興は細川藤孝の子供で、この時藤孝も光秀も信長の部下でした。玉は藤孝が領有する長岡京の青龍寺城に輿入れし、ここで2年を過ごす間に長男忠隆を授かります。この忠隆が私の先祖になります。その後細川家は長岡から丹後に国替えになり、玉は1580年藤孝、忠興と共に丹後に入国しそこで過ごすことになります。細川氏の丹後での拠点は宮津城と田辺城でした。
本能寺の変で玉の人生は暗転
ところが、1582年光秀が本能寺で主君信長を討つということが起こりまして、光秀の娘玉の人生は暗転することになります。
謀反を起こした後、明智光秀から細川藤孝あてに手紙がきます。藤孝、忠興父子は、光秀が主君信長を討ったということを聞いたとたんに、髪を剃って信長を悼むという立場をとります。そこに明智光秀から応援依頼の手紙がきます。手紙には「このようなことを起こしたのは自分が天下を治めたいわけではない。娘婿の忠興を引き立てたいからだ。天下を取ったら自分は引退する。」というようなことが書いてあります。
しかし、藤孝はこれに応じず、光秀は山崎の戦いで秀吉に滅ぼされることになります。
明智光秀の手紙
明智玉にとっては、自分の父が謀反を起こし、自分の舅や夫に対して応援を求めてきたのに、舅や夫はそれに応じなかったので10日ほど後には父親が殺されることになったのです。細川藤孝は、光秀を応援しても勝てないと当時の状況を判断したのかあるいは信長に心酔していたのかは分かりません。
玉(ガラシャ)はキリスト教徒に
玉は謀反人の娘ということになったわけで、細川家の家中からもそのような嫁は処分しなければならないという声も出てきます。しかし、忠興は殺したくないと思ったのか、おそらく離縁という形になっていると思うのですが、玉を京都の味土野という山奥に幽閉しています。私も行ったことがありますが、大変な山奥です。結局そこに2年間幽閉されることになります。その後忠興は天下を取った秀吉から許しを得て玉を城に戻します。しかし、玉は大阪でもほとんど邸宅に閉じ込められたような生活をしており、かなり気の毒な日々だったのではないかと思われます。そのようなこともあり宗教(キリスト教)に頼ることになります。細川ガラシャというのは洗礼名です。ガラシャは英語で言うとGraceという言葉になります。こうして細川ガラシャはキリスト教徒として生きることになりました。
ガラシャ自害
そうこうしているうちに秀吉がなくなり、石田三成と徳川家康の間で対立が起こってきます。家康が上杉征伐をしている間に三成が挙兵します。大阪城の付近には各大名の大阪屋敷があり、そこには上杉討伐に行っている大名の奥方たちがいます。三成はそれを人質に取って自分の味方につけようとします。この時に、細川忠興、加藤清正、黒田長政といった諸大名の奥さんを人質に取ろうとしますが、清正や長政の奥方は屋敷を脱出して船に乗って領国に帰ってしまいます。
一方、ガラシャは忠興から「もし人質に取られるようなことがあればそこに留まって自害せよ。」と言われていたという話が伝わっております。大阪の玉造に細川家の屋敷がありました。越中井戸というのが遺構として残っています。細川家は越中守だったのでそこから越中井戸という名前がつけられているのです。
この屋敷が三成方に取り囲まれた時に、細川ガラシャは屋敷に火をつけて自害します。ガラシャがこのショッキングな行動に出たものですから、三成は人質作戦を断念せざるを得なくなりました。
500騎で15,000騎を迎え撃つ
しかし、自害をするのは三成方には付かないという明確な意思表示ですから、三成方は細川家を攻めることになります。当時細川家は丹後の国の領主をしており、宮津城や田辺城などの城を持っておりました。この時細川家当主の忠興は家康とともに軍勢を率いて上杉征伐に行っております。領国を守っておりましたのは髪を下ろし引退し幽斎と名乗っていた藤孝です。
石田三成方は1万5千騎の軍勢で細川を襲います。その時国に残っていた細川の軍勢はわずか500騎。500騎が1万5000騎に取り囲まれます。これが1600年の7月のことで、多勢に無勢であっという間に落城すると思うのですが、1月半ほど持ちこたえます。
細川幽斎 和議に応じず芸(古今伝授)が身を助ける
幽斎は当時の和歌の第一人者で、古今伝授といいまして古今和歌集を口伝で伝えるべき立場の人だったのです。幽斎は4年ほどかけて古今伝授を受け、それを次の人に伝授している最中だったのです。伝授を受けていたのは八条宮智仁(としひと)親王でした。朝廷としてはここで三成軍に攻められて幽斎が死んでは困るということで、降伏して和議に出てきなさいと幽斎に勧めます。しかし幽斎はここで和議に出ていくと以後徳川方につくことができなくなると思ったのか、和議に応じません。
和議に応じずに籠城している間に当時の後陽成天皇が石田三成軍に囲みを解けという勅令を出します。それでやっと出てきたのが9月13日でした。関ヶ原の戦いがあったのは9月15日です。9月13日まで1万5千騎の石田軍を田辺城に引き付けていたのでその軍勢は関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。このようにガラシャが人質作戦を断念させたことと、幽斎が1万5千騎を関ヶ原の戦いの寸前まで田辺城に引き付けたということで、細川家は関ヶ原の戦いの行方に大きな影響を与えました。
忠興は関ヶ原で武勲
忠興は家康とともに上杉征伐に行っていましたが取って返して関ヶ原では徳川軍として戦っております。三成軍の右翼から攻め込んで武勲を上げたという記録が残っております。細川親子と嫁ガラシャは関ヶ原の戦いの行方に大きな影響を与えました。今から10年ほど前の平成22年に細川幽斎没後400年記念祭が熊本の泰勝寺で執り行われまして、細川一門と田辺城籠城御家来衆子孫が集まり私も家内と長女を連れて出席しました。
細川幽斎公没後四百年記念祭
細川一門と田辺城籠城ご家来衆子孫の集まり
於泰勝寺(熊本):平成22年
(前列中央が細川護熙氏。2列目左から2人目が講演者)
ガラシャの3人の子
ガラシャは38歳で亡くなりましたが、3人の男の子がいました。長男の忠隆、次男の興秋、三男の忠利です。私は長男忠隆の系統になります。三男忠利が本家になりますが、本家では後に養子をもらっており、ガラシャや明智光秀の血が続いておりません。また、次男の興秋は早く亡くなっております。そういうことで明智光秀とガラシャの血をはっきりとついでいるのは長男忠隆系の細川内膳家だけになりました。
長男忠隆の廃嫡
長男の忠隆は父忠興とともに関ヶ原の戦いに出陣して武勲を上げるなど細川家の跡取りとみなされていた人物でした。ところが、ガラシャが玉造で自害をしたときに忠隆の嫁が姑であるガラシャのお供をせずに逃げたのです。私はおそらくガラシャが嫁を「こんなところで死ぬ必要はない。あなた逃げなさい。」と逃がしたのだと思いますが、忠興はそれを責めて「あんな嫁は離縁してしまえ」と忠隆に言います。
この嫁というのは前田利家の娘なのです。前田利家とまつの間にできた六女か七女で、この結婚については豊臣秀吉が取り持っています。この結婚で細川家と前田家が姻戚関係になっていたのですが、前田利家は豊臣秀吉の盟友ですので徳川家康の天下となった今、忠興としては離縁によって前田家との姻戚関係をなくしたかったのだと思います。しかし、忠隆は離縁をしたくない。そうこうしている間に忠隆は跡継ぎの座をはずされます。
三男忠利は嫡子に
一方、三男忠利は後に徳川家康の曽孫と結婚しています。また忠利は関ヶ原の戦いのときは徳川家の人質になっていました。人質といっても牢屋に入れられているわけでもなく、徳川家の人たちと一緒に暮らしています。このように徳川と深い関係のある忠利に後を取らせる方が細川家の将来にとっては良いと忠興が判断したのでしょう。関ヶ原戦いの数年後に忠隆は廃嫡され、忠利が跡を取っています。
次男興秋は切腹
ここで面白くないのが次男興秋です。長男が廃嫡されたら次は次男だろうと思うでしょう。しかし父忠興は徳川に近い忠利の方が跡取りとしては良いと判断していたので、次男興秋はそれへの反発か大坂夏の陣で豊臣方につきます。戦いでは死ななかったのですが、その後父忠興から命じられて切腹しました。
こうして長男は廃嫡され、次男は切腹し、三男が跡を継ぎ最初は小倉に行き次に熊本に行って大名家として代々続くということになりました。
細川内膳家の祖忠隆は京都で没する
長男の忠隆は、廃嫡された後京都で文化人として公家とお付き合いをして暮らします。その子供の代から熊本に行って細川内膳家が続きます。京都で亡くなった忠隆のお墓は京都の大徳寺高桐院という所にあります。内膳家としては京都の墓から分骨して熊本にも忠隆の墓を作りました。この熊本の墓はいったんは人手に渡りましたが、私の祖父がそれを買い戻し今は私と兄弟などとで管理しております。
最後に私の先祖3人が読んだ3つの歌をご紹介いたします。
- 「ときは今雨がしたし(な)る五月かな」
- 明智光秀(十兵衛)1582年5月
- この歌はご存知の方も多いと思いますが、本能寺の変を起こす1週間か10日ほど前に京都の愛宕山で開かれた連歌の会で、発句としてうたわれました。後世の人はこの句は次のような意味が隠されているといいます。「とき」は土岐氏(明智光秀)であり、「あめがしたしる」は天下を取るという意味で、「土岐氏が天下を取る5月である」いう意味だと解釈します。
実際この連歌会に出ていた里村紹巴という当時の文化人は、後日豊臣秀吉から「光秀がこのような句を詠んだのだから謀反を起こすことを知っていたのだろう。」と詰問されます。「あめがしたしる」というと天下を治めるという意味になるので、里村紹巴は、「光秀は『あめがしたなる』と歌っていました。」と言って難を逃れたという話があります。 - 「散りぬべきとき知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
- 細川ガラシャ(明智玉)1600年7月
- 小泉首相が職を辞する時に引用したガラシャ自害のときの歌ですが、「花も散りどきが大事で、人も死ぬべきときに潔く」という意味ですね。辞世の句としては大変有名です。
- 「いにしえも今もかはらぬ世の中に心のたねをのこす言の葉」
- 細川幽斎(藤孝)1600年7月
- これは辞世の句かどうかは断定できません。幽斎が田辺城で討ち死にを覚悟して古今伝授相手の八条宮智仁親王に免許皆伝の免許状のようなものを渡します。その時につけられていた歌です。「自分は死ぬけれども歌の奥義を残していってください」というような意味が含まれているのだと思います。その当時の和歌の達人同士で交わした歌ですので、私がその真意を解釈するのは無理かもしれません。
ご清聴ありがとうございました。
(2020年3月23日本ページ公開)